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「正岡子規と伊予の文化」講座  
第6講座
表題  愚陀仏庵の五十二日
要旨  子規と漱石の友情 近代文学誕生の契機
                                    三 好 恭 治 
 はじめに    子規と漱石の出会い
 
⒈ 愚陀仏庵の五十二日 ― 日録 ― どうする子規 どうする漱石
 
2 子規 ― 生と死の狭間 ― 従軍記者 喀血 神戸・須磨病院 帰郷
 
3 松風会 ― 俳句結社の誕生 ― 「坐る子規」
 
4 子規と漱石 ― 句会 吟行 松山中学校 ― 「歩く子規」
 
5 子規・漱石の別離と再生  ― 文学革新 それぞれの人生 ― 「臥せる子規」
 
おわりに   子規山脈と漱石山脈  ・・・・俳聖子規と文豪漱石
GPTGenerative Pretrained Transformer)と俳句
「ストーブの 傍に小さき 椅子一つ」  
言葉とコトバ
「後列の 頑張ってゐる 燕の子」
はじめに
 子規と漱石の出会い
 
誕生 慶応3年(1867) 江戸幕府崩壊( 一夜空しく瓦解する・・・暗記用)
夏目 金之助(漱石)         江戸牛込(現在の東京都新宿区)
正岡 処之助(升、常規 子規   伊予松山(現在の愛媛県松山市)
出会い   (相思相愛 共に  落第経験者)
明治17年9月 東京大学予備門(第一高等中学校・第一高等学校(改称)入学。同期生。
明治22年1月 寄席 江戸文学 漢詩 (東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ)
〇忘れてゐたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は二人で寄席の話をした時先生も大   に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので話すに足るとでも思つたのであらう。其から大に近よつてきた。
彼は僕には大抵な事は話したやうだ。兎に角正岡は僕と同じ歳なんだが僕は正岡ほど熟さなかつた。或部分は万事が弟扱ひだつた。従つて僕の相手し得ない人の悪い事を平気で遣つてゐた。すれつからしであつた。(悪い意味でいふのでは無い。) (夏目漱石「正岡子規」)
注)一つの原因 ・・・子規が手がけた文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まった。
②余、吾が兄を知ること久し。しこうして吾が兄と交わるは、すなわち今年一月に始まるなり。余の初め東都に来るや、友を求むること数年、いまだ一人をも得ず。吾が兄を知るに及んで、すなわちひそかに期するところあり。しこうしてその知を辱くするに至り、すでに前日を憶えば、その吾が兄に得るところは、はなはだ前に期するところに過ぎたり。ここにおいてか、余は始めて一益友を得たり。その喜び、知るべきなり。( 正岡子規 「『木屑録』評」 )
落第  (クラスメイトのキッカケ)
明治17年9月 子規・漱石 東京大学予備門 入学
明治18年6月 子規 落第(数学欠点) ((校長 小林小太郎 数学教師 隈本有尚)
注 「併し余の最もこまったのは英語の科ではなく数学の科であった。この時数学の先生は隈本先生であって数学の時間には英語より外の語は使わぬといふ制規であった。数学の説明を英語でやる位のことは格別むずかしいことでもないのであるが、余にはそれが非常にむずかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時にひきうけたまらない。とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないので落第した。 (正岡子規 「墨汁一滴」)
 
明治19年 月 漱石 落第(虫垂炎 予科二級進級試験不可)
明治21年9月 子規・漱石 第一高等学校本科一年一部 進学
明治22年1月 子規・漱石 出会い
明治22年9月 子規・漱石 同 級 第一高等中学校本科一部二年三之組
明治23年9月 子規、帝国大学文科大学哲学科(後、国文科転科)
明治25年6月 子規、帝国大学文科大学国文科 12月、退学 日本新聞社出社
明治26年7月 漱石、帝国大学文科大学英文科卒業、大学院進学。帝大寄宿舎入居。
明治27年春~冬漱石、結核 菅虎雄新居・宝蔵院・鎌倉円覚寺塔頭帰源院  脳病?
明治28年4月 漱石、菅虎雄の尽力で、愛媛県尋常中学校英語教師として赴任。
明治29年4月 漱石、再度菅虎雄の尽力で、第五高等学校講師(後、教授)として熊本赴任
 
 
1、愚陀仏庵の五十二日 ― 「日録」 ― どうする子規 どうする漱石
 
漱石・松山での止宿先
1)「城戸屋旅館」(『坊っちゃん』山城屋のモデル)→廃業
①「何だか二階の梯子段の下の暗い部屋に案内した。熱くって居られない。」
②「十五帖の表二階で大きな床の間がついて居る。おれは生まれてからまだこんな立派な座敷に這入った事はない。
 
2)「愛松亭」→ 松山中学校外国人教師宿舎 →愛松亭跡記念碑 漱石珈琲店愛松亭
ノイス( Noyes)、ターナー( Turner)、ホーキンス( Hawkins)、ジョンソン( Johnson
 
3)「愚陀仏庵」→ 松山市二番町上野義方邸の「離れ」→ 焼失 →駐車場 →復元??? 
 
漱石と「愚陀仏庵」
「愚陀仏は主人の名なり冬籠  漱石」
「漱石」は、子規から譲り受けた雅号。 『漱石』は、数ある子規の俳号。
【漱石枕流】「石に((漱)くちすすぎ 流れに枕する」
注記
「愚+((阿弥)陀仏+庵」
「知其愚者、非大愚也。知其惑者、非大惑也。大惑者、終身不解。大愚者、終身不靈」(『荘子』天地篇第12
「大愚到リ難ク 志成リ難シ」(漱石 漢詩),( 大愚則大智)
「無知の知」(不知の自覚)古代ギリシア哲学者、ソクラテス
「阿弥陀」  無量寿(無限の時間 アミターユス) 無量光(無限の空間 アミターバ)
 
子規招聘の書簡(恋文ヵ)
 
〇明治二五年五月二六日  一番町愛松亭・・・神戸県立病院 常規宛 
「(略)  古白氏自殺のよし当地に風聞を聞き驚入候。随分事情のある事と存候へども 惜しき極に候。
   当地着後直ちに貴君へ書面差上候処、最早清国後出発の後にて詮方なく 御保養の途次ちょっと御帰国は出来悪く候や。
小生近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候。   ()
  五月二十六日    子規賢兄 研北(「机下」の意 )          夏目金之助
 
〇明治二五年八月二七日  二番町上野方・・・ 湊町大原方 常規宛)
「拝呈 今朝鼠骨子来訪。貴兄既に拙宅へ御移転の事と心得 御目にかかりたき由申をり候間、 御不都合なくばこれより直に御出でありたく候。
  尤も荷物など御取纏め方に時間とり候はば後より送るとして身体だけ御出向如何に御座候や。先は用事まで。早々頓首。
   八月二十七日    子規俳仙 研北                漱石
()『漱石・子規往復書簡集』和田茂樹編(岩波文庫)
 
恩師宛 書状  
拝呈出立の節は色々御厚意を蒙り奉万謝候 私事去る七日十一時発九日午後二時頃当地着仕候間乍憚御安意被下度候赴任後序を以て石川一男氏に面会致し早速貴意申述置候間左様御承知被下度候 同君事ハ今回石川県に新設の中学校へ更任相成明日当地出発の筈に御座候小生就任来既に四名の教師は更迭と相成石川君も其一人に御座候何事も知らずに参りたる小生には余程奇体に思ハれ候
教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学の有様抔は東京に在って考ふる如き淡泊のものには無之小生如きハ ―ミット((隠者)的の人間は大に困却致す事も可有之と存候
くだらぬ事に時を費やし思ふ様に勉強も出来ず且又過日御話の洋行費貯蓄の実行も出来ぬ様になりはせぬかと竊かに心配致居候
先ハ右御報まで余ハ後便に譲り申候時下花紅柳緑の候謹んで師の健康を祈り申候 頓首
四月十六日            金之助
    神田先生   座右  
注記
ハ―ミット 隠者的 漂泊の詩人   鴨長明 吉田兼好  西行法師  芭蕉・・・・
禅的世界 西洋哲学世界  
「 俳」(人+非)・・・俳人 俳優 俳諧
 
【資料】 愚陀仏庵の五十二日 ― 日録 
 
2 子規 ― 生と死の狭間 ― 従軍記者 喀血 神戸・須磨病院 帰郷
漱石は明治二八年帝大大学院卒業と同時に東京高等師範学校の嘱託教員を辞め、松山尋常中学に赴任する。子規は明治二六年に帝大を中退し日本新聞社に入社する。
二八年三月「日清戦争」従軍記者として四月に宇品を出航。大連湾に入り、柳樹屯、金州、旅順を訪ねる。まもなく下関で講和条約が締結され、子規は従軍記者としての役割を達することはなかった。金州で「藤野古白」の自死を知り、森鴎外と出会う。
五月一七日帰国の船中で大量の吐血をし容態が悪化、上陸後、神戸病院に入院、七月須磨保養院に移る。八月末、郷里松山に帰郷する。
 
子規にとって、死と対峙した三ヶ月であったといえよう。そして「愚陀仏庵の五二日」で精神的にも肉体的にも危機を脱して小康を得た。
帰京時に広島。須磨、大阪を経て、奈良に遊び、子規の代表句とされる
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
が生まれる。その後、根岸「子規庵」では「歩く子規」「座す子規」から「臥せる子規」として俳句革新を成し遂げる。
バ帰京後の二九年三月、郷土の後輩高浜虚子を呼び出し、道灌山で子規(文学)の後継を依頼するが虚子は断る。
柿くふや道灌山の婆が茶屋
の句が残っている。(虚子『子規居士と余』)
 
注記
子規の病状は「結核性脊椎炎」(脊椎カリエス) 現代でも完治は困難である。
一方、漱石は、追跡症(統合失調症・神経衰弱・脳病)といわれる精神病の一種を引き起こしていて、文芸の創作が自分の精神の回復の一助になるのではないかという、云わば漱石の「エゴイズム」が子規を松山に立ち寄らせたのではないか。医師による研究調査論文も多々あるが、論者は医学とは無縁でありコメントを避ける。「脳病持ち」であったのは事実である。
3 松風会 ― 俳句結社の誕生 ― 「坐る子規」
松風会は松山で結成された全国初の子規派俳句結社である。
 
発会】
松風会は、明治二七年三月二七日に、松山尋常高等小学校の校長・中村一義(愛松)、教頭・野間門三郎(叟柳)、訓導・伴政孝(狸伴)ら三人を発起人として、大島梅屋、国安半石、河野青里、永木永水、乃万撫松、阪本伸緑、玉井馬風、服部華山、白石南竹ら、松山尋常高等小学校の教員たちにより結成された。「松風会」の名称は、芭蕉の道をたどるという意味て「蕉風会」はどうかという提案があったが、松山だから「松風会」で落ち着いた。この日、狸伴の家に同校有志が集まって句会が開かれ、その会で同意を得たものである。
(注)松山尋常高等小学校教員は「愛媛師範学校」(明治九年(1876)年創立)卒業が前提であり、明治初期の県下のエリート(文化人)であった。跡地が「市立番町小学校」である。
その後、会員には海南新聞記者の柳原碌堂(極堂)、県学務主任の大導寺松露、弁護士の天野箕山、海南新聞社員の森孤鶴(盲天外)、正宗寺住職の釈佛海(一宿)、子規の叔父で市吏員の岡村三鼠、愛媛新聞編集主任の御手洗不迷、教員の久松陽松、松本野堀、近藤我観らが参加し、週一回の持ち回りで句会を開き、俳句に熱をあげていった。
当初、教頭の野間叟柳が宗匠格として選句をしたり講釈をしたが、月並みの域を出なかった。そのうち子規の教えをうけた下村為山が帰省し、代わって指導することになった。
松風会以前の子規による指導
松風会以前の松山における子規に呼応した俳句活動は、明治二四年夏が最初である。その年の子規の帰省を機に、当時松山中学の学生であった河東碧梧桐・高浜虚子・河東可全・武市烙松らのグループが俳句草稿を回覧した後、子規の批評を仰いだ。俳史上は。重要な事項である。
(注) 『子規・漱石』高浜虚子著(岩波文庫)
松風会初期の子規による指導  愚陀仏庵以前
「松山地方において、新派俳句に共鳴して之が研究を始めたるは明治二十七年春である。」
「明治二十八年三月三日、子規は従軍記者として東京を出発し広島を経由して十三日、松山に帰り叔父大原恒徳の邸に投せられた。余等(松風会会員)同人数名とともに、その邸を叩きて日本派俳句につきて教へ を請ひしに、居士は快く之を容れられ、日夜懇篤に教示を与えられた。従軍の途次のため、僅かに数日を出でずして十八日名残惜しくも袂を分かって広島に送ることとなった。」
(注)野間叟柳 「松山地方における日本派俳句研究の起源と子規居士」( 子規会誌)
愚陀仏庵時代
松風会結成一年後の明治二八年八月には子規が従軍後の病気療養のため帰省したので、懇請して指導を受けることになった。愚陀仏庵で毎日のように開かれる句会・勉強会には、やがて夏目漱石も加わり日参組も現れるほどの活況を呈した。『散策集』 は当時の吟行の記録であり、『俳譜大要』 は松風会会員の指導を前提として執筆された。テキストはなく「子規口述筆記稿本」(明治二八年)を子規博が所蔵している。
(注)「子規口述筆記稿本」 半紙表裏に墨書でびっしり口述内容のエッセンス(基本事項)が書かれておる。和田克司(子規学者)の調査では、「増補再版 獺祭書屋俳話」(明治二八年九月五日)の内容と一致している。
「増補再版 獺祭書屋俳話」 ➡「子規口述筆記稿本」(愚陀仏庵の五二日) 『俳譜大要』
(明治二八年八月二七日~一〇月一七日)
 
 
 
『獺祭書屋俳話』 上 (明治二八年九月五日)
獺祭書屋俳話小序 
俳諧といふ名称
連歌と俳諧
延宝天和貞享の俳風
足利時代より元禄に至る発句
俳書 [朗読2
字余りの俳句
俳句の前途
新題目
和歌と俳句
獺祭書屋俳話 中
宝井其角  嵐雪の古調  服部嵐雪  向井去来  内藤丈草
東花坊支考  志太野坡
獺祭書屋俳話 下
武士と俳句
女流と俳句
元禄の四俳女
加賀の千代
時鳥
扨はあの月がないたか時鳥
時鳥の和歌と俳句
初嵐
女郎花
芭蕉
俳諧麓の栞の評
発句作法指南の評
 
『俳諧大要』(「日本」日本新聞社(明治二八年一〇月二二日~一二月三一日)
第一 俳句の標準
第二 俳句と他の文学
第三 俳句の種類
第四 俳句と四季
第五 修学第一期
第六 修学第二期
第七 修学第三期
第八 俳諧連歌
 
子規が愚陀仏庵を去った後も、野間叟柳や極堂を中心に新派の俳句熱は続き、句塙を東京の子規に送って批正を受けた。明治二十八年には会員が百三十余名に及ぶ盛況で、その活動に刺激されて、新派俳句は海南新聞等の報道を通じて全県的に普及していく。中予では松山のほかに余戸・砥部で、また東予では越智郡桜井等で次々に結社が寒生した。この機運を捉えて、柳原極堂は、新勢力を結集して子規の俳句革新事業を支援しょうと俳句雑誌を企画、明治三十年一月に「ほととぎす」を刊行した。
 
復興期】 
その後、松風会の活動は一時停滞するが、三十一年十月に村上零月・極堂・里柳・青天外・円月ら十五名で再開、三十四年には森田雷死久らの復興への努力により、新たに高木天網子(西本里石(本名利作)、坪井鐘明堂(本名鐘三郎)、久野助二郎、中矢如意坊(本名役次郎、新聞記者)、石崎一涛、三由淡紅 (明治十一年~昭和三十四年)、野本蛭牙公(新聞記者)、末光悠々子ら約二十名が参加して活躍するなど消長を繰り返しつつ、四十一年までは活動を続けた。松風会は、日本最初の地方俳句結社として結成され、子規の俳譜精神に支えられて活発に活動し、日本全国へと子規派俳句が普及していく基盤となった。その伝統は今も松山の地に息づいている。
 
『俳譜大要』 (和田克司 『松山 子規事典』 に拠る)
子規の本格的な俳句評論書であり、俳句入門書である
明治二八年(一八九五)の大病後に松山で執筆されたもので、子親の俳論の著作として、きわめて重要な一書である。当初「日本」には、「養痾雑記 俳諧大要」として第一回(明治二八年十月二二日)より第三回までは連載され宗、以後は「俳譜大要」として、最終回十二月三十一日まで連載された。回を重ねるごとに、全体の構想を固め、俳句の重要度を確定していった趣を読み取れる。
原稿は新聞「日本」に送付されたが「海南新聞」に転載された。後、明三二年斉二〇自「俳譜叢書」の第一編として、ほととぎす発行所より単行本としても発行された。
「俳諧大要」の内容は、序にあたる部分で、俳句の標準、俳句と他の文学、俳句の種類、俳句の四季について概説し、修学第一期、修学第二期、修学第三期に及ぶ課程を明示した後に、俳譜連歌の規則たる式日を具体的に説明した。
修学第一期では、「古池や蛙飛び込む水の音」の句解をはじめ三十数句を説き、例句を挙げて新鮮な見解を示し、
修学第二期では、多作とともに、壮大雄渾と繊細精緻、雅朴訥と碗麗を対比させた後に、理屈を避けるべきを説き、俳句史を記述し趣向、言語、句調、避けるべきたるみを説く。具体的には、空想と写実とを対比させながら、名所旧跡にいたり、新意匠、滑稽、技法につき、説明し、蕪村の句など数句の句解を展開する。
修学第三期では、さらに進んで、文学専門への道を示し、俳句の陳腐と新奇とを知り、空想、写実
の合一化による探求への道を示している。
執筆の契機については、子規自身は「花山といへる盲目の俳士あり」「発句というものを詠まんとはすれどたよりべきすぢもなし」とて、教えを請うたのに対して、その「綱目を挙げて「花山子」
に伝えてほしいとて、松風会諸氏に、親切に俳句を説明した。花山は、服部華山。
松風会会員として俳句の人々と交わった。
のち虚子が単行本として発刊した折に記した序文に「極堂等松風会諸氏朝暮出入して俳を談じ句を闘す。時に明治二十八年新聞日本に連載せらる。是れ俳譜の大道なり。今輯めて一巻となし俳譜叢書第一編に収集むる所以なり」とあるように、松風会の人々に「俳句は文学の一部なり」と高らかに、美の標準と俳句の肝要なるを説き、あるべき姿を語りかけて、俳句を通じて文学への道を示した。
 
その執筆は、大病後にあって、体力の回復もままならぬ中であって、病気から立ち直るべき再生の思いを強くしながら、語りかけるがごとき筆致とともに、文].学活動の原点に立った発言を続けた。松風会に名を借りながら論旨を進展させたとうころに、呼びかけとしての意味があった。    
読者の中の重要な人物として、同居していた漱石を意識していたと考えるべきであろう。また、執筆当時、子規には直接給与が支払われた形跡がなく、「俳譜大要」の執筆稿料が、直接の生活費となったと思われる。子規は、当時経済的に、きわめて厳しい状況にあった。
 
4 子規と漱石 ― 句会 吟行 松山中学校 ― 「歩く子規」
◎句会
 漱石 二階から下りてきて参加
「愚陀仏庵の52日 日録」参照。記載ある句会は一〇回程度 (連日連夜 開催ヵ) 
但し、子規の健康不良で九月二六日から一〇月八日まで松風会句会は子規鼻血出血により遠慮)
 勉強会の記録は不明(連日連夜 開催ヵ)
九月 一日 延齢館句会
三日 松風会句会 
一一日 松風会句会 
二二日 運座句会  
二四日 松風会句会 
二五日 松風会句会
一〇月  三日 正宗寺「名月」句会  
八日 運座句会 
一二日 子規送別句会(花の舎) 
一七日 送別句会( 三津・ 久保田回漕店)
 
◎吟行  『散策集』
第一回  九月二〇日 道後郊外        同行 極堂
第二回  九月二一日 松山郊外(北)     同行 愛松 極堂 梅屋 三子
第三回 一〇月 二日 藤野・大原邸訪問   同行なし 
第四回 一〇月 六日 道後温泉・宝厳寺   同行 漱石 
第五回 一〇月 七日 今出 村上斎月邸   同行なし
(注)『子規紀行文集』復本一郎編(岩波文庫)
 
◎松山中学校(略史)
藩校「明教館」設立
英学司教・小林小太郎(儀秀) 慶応義塾
松山県学校(改称)
英学舎(改称) 所長 草間時福 慶応義塾
(県立)英学所(改称)
(県立)北予変則中学校(改称)
(県立)松山中学校(改称)
(県立)第一中学校(改称)     慶応義塾英語教師
 
(県立)第一中学校廃校
(私立)伊予尋常中学校開校      外国人英語教師
 ( NoyesTurnerHawkinsJohnson
(私立)伊予尋常中学校閉校
(県立)松山尋常中学校開校       帝大英語教師
(県立)松山中学校(改称) (夏目金之助・ 玉虫一郎一
(県立)松山第一高等学校
(県立)松山東高等学校
 
5 子規・漱石の別離と再生  ― 文学革新 それぞれの人生 ― 「臥せる子規」 
 
子規最後の句    辞世三句 をととひの へちまの水も とらざりき
  句会(座の文学)
  伝統俳句(芭蕉・蕪村・子規)  近代俳句(虚子・碧梧桐~)➡ 現代俳句 (俳句甲子園)
 
子規山脈は高く広い。( 『愛媛県史』記載「子規周辺の人々」)
①内藤鳴雪 ②藤野古白 ③歌原蒼苔 ④竹村黄塔・河東可全 ⑤武市蟠松 
⑥勝田宰洲 ⑦新海非風 五百木飄亭 ⑧下村牛伴(為山) ⑨寒川鼠骨 ⑩竹村秋竹
⑪野間叟柳 ⑫村上霽月 ⑬仙波花叟 ⑭松根東洋城 ⑩岡田燕子 ⑯森田雷死久
平常心
○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。(〈子規 『仰臥漫録』二十一〉
 
漱石最後の句   瓢箪は 鳴るか鳴らぬか 秋の風」
  ○ 則天去私
   伝統文学(露伴・紅葉) ➡  近代文学(漱石・鴎外~) ➡ 現代文学(大江健三郎) 
○木曜会( 夏目漱石宅書斎) 毎週木曜日午後3時以降 ( 津田青楓「漱石山房と其弟子達」
【四天王】 小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、安倍能成  
【十大弟子】赤木桁平・阿部次郎・安倍能成・岩波茂雄・内田百閒・寺田寅彦・野上豊一郎・松根東洋城
(注) 門下の画家とされる津田青楓の「漱石山房と其弟子達」[35] が彼らの姿を描いた絵画として有名で、以下の顔ぶれが見られる。( 津田青楓「漱石と十大弟子」)
(小説家)中勘助・江口渙 
(学者・文化人)和辻哲郎、滝田樗陰
(学生)芥川龍之介、久米正雄、松岡譲
 
おわりに
 
子規山脈 漱石山脈  ― 俳聖子規  文豪漱石
 
GPTGenerative Pretrained Transformerと俳句
      
 GPTは「Generative Pretrained Transformer」の略。米Open AIが開発した自然言語AIシリーズの名前として使われている。自然言語AITransformer」をベースに開発したもので、人間が書いたものと見分けがつかないような文章を生成できる。
「ストーブの 傍に小さき 椅子一つ」
  
言葉とコトバ
「後列の 頑張ってゐる 燕の子」